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60年前といまと

60年前の今日のこと
 ここにいたるまでの でんでんむし さんの連載を読みながら
 現代は 地方による体験の落差が小さい時代なんだな と思うのです



 私は昭和41年生まれなのですが
 両親は大正時代生まれ 太平洋戦争を知る世代です 
 そうはいっても 年齢差と暮らしていた場所に違いがあるので 
 両親にとっての 昭和20年 はかなり違います
 私の母親(大正15年生まれ)が何をしていたかというと
 教員養成所を終了して
 (本来は女学校卒で無いと受験資格が無いのだが
 小学校の担任のミスで女学校を受験し損ない、商業学校へ進学。
 いまだったら新聞沙汰モノである。
商業学校の学校長の口添えで受験がかなったという)  
 小学校の教員(代用教員ではなく,正規!)になったところ
 彼女の暮らしていた 
 兵庫県北部の城崎郡田鶴野村は 戦災とは全く無縁のところだった
 農業をなりわいとしていたので 
 戦争中でも ずっと米の飯を食べていたそうである
  
 一方 私の父親(大正7年生まれ)は
 すでに既婚者で 当時は 満州国に居住していた
 いろいろ 引き上げてくる時に苦労があったとは思うが
 父親は 私が7歳の時に 死亡しているので そういう話を聞く機会は無かった

 60年前の今日 
 ごくごく普通に 暮らしている人々がいた一方で
 原子爆弾というトンでもないモノの犠牲になった人がいること
 内地を離れた場所で 戦局の展開とともに 不安な毎日を過ごしていた人がいること
 
 原子爆弾を開発したのは
 「原子核物理学」という 
 私の最初の大学での専攻分野の研究者であったこと
 
 うまくまとめられないけど・・・
 ヒトは 「自分の知り得る範囲の事だけが 正しい」
 と錯覚しがちな 情けない生き物

 
 現代では 
 居住している地方による体験の落差が小さいから
 戦時中を生きたヒトは皆 戦災を体験し
 米の飯など食べられなかった というイメージに
 若い世代は引きずられるのだろうが そうではない人々もいたのです
 
 でんでんむしさん と
 私の母の下の妹たち(昭和11年生まれ 昭和13年生まれ)
 私と父親を同じくするが 母親は違う 1番上の姉(昭和11年生まれ)
 私の夫の母(すでに物故 昭和15年生まれ)
 あまり世代に開きは無いですが
 住んでいた地域に違いがあるので かなり 生活体験には落差があるのです

 ※田鶴=コウノトリのこと 
 昭和20年頃は
 そこらじゅうにコウノトリがいて 道には 普通に農耕用に飼育される但馬牛の牛糞
 が 落ちている そんな 風景があったのが 田鶴野村でした
 コウノトリの郷公園 は この村のエリアに あります

by gabefunyaa | 2005-08-06 17:58 | あれこれ | Trackback(3) | Comments(4)

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Commented by den8den8 at 2005-08-06 18:31
gabefunyaaさん、トラックバックありがとうございます。
そうか、田鶴はそうなんですね。豊岡の辺りでしたっけ。多かったのは。
現代は、ほんとに地方と都会も、地方と地方も、あまり差がないですからね。その意味では、昔はいる場所によってかなり運命が左右されてきました。
それにしても、すごいお勉強をなさっているのですね。素直に感心。
Commented by 社労士法人オーク【石井孝治】 at 2005-08-06 19:56 x
私の住む広島では60回目の原爆の日を迎えました。
今、この時間も平和公園横の元安川では供養に灯篭流しが行われています。
Commented by blinkey at 2005-08-06 22:48
私の実家周辺が受けた空襲の写真を見たことがありますし、当時広島に行っていた私の大叔母さんが原爆の被害を受け、それからずっと足を引きずっているのを小さい頃から見ていました。ですから、まめさんのいう「普通に暮らしていた人々」というのは、なかなか今までは想像していないことでした。
改めて物事はいろんな面から複眼的に眺めることが重要だと感じました。

ちなみに「米」つながりで思い出したのですが、「江戸時代の農民は搾取されていたので、白米を食べることはできなかった」というのも、有名な詭弁ですね。海外との貿易が無かった当時、「米」というものは結局人の口におさまるしかなかったんですよね。いくら頑張っても5%とかその程度の武士階級がすべての白米を食べることはできない、最終的には農民が食べていただろう、と現在では科学的に説明されています。
この例なども、単純に知っている範囲のイメージだけで語ることの危険性を教えてくれます。
Commented by gabefunyaa at 2005-08-07 09:15

まあ こういうのも事実なんで
高野連でうっかり「原爆は広島だけのこと」みたいな事を口走ったヒト
彼を弁護してやるとすれば,身近な人々は皆のほほんと日常を暮らし
徴兵されても無事に戻ってきていたんでしょうね。
(だからといって想像力が働かせられないとしたらば 本当に情けないです)
・・・満蒙開拓団でひどい目に会った人、シベリア抑留から戻ってきた人
そんな人達も 私の母の友人には 混じっております。

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